親愛なる読者の皆様。ブログを訪問くださって、ありがとうございます。しばらくは哲学的な内容になります。
哲学が分かると、モノの見方も変わってきます。政治や経済に対する見方、人間の生活全般の価値観も変わってくると思います。
人は、自分の価値観で世界を判断しています。自分が「正しい」と思う価値観で、全てを判断しています。ですから、「正しい」と考えているものが変わったとき、あなたにとって世界のすべてが変わって見えるはずです。
哲学が大切なのは、単に学問的な興味からだけではなく、現実の世界に対する認識が、自分の哲学に影響をうけているからでもあります。
さて、今回は「正しい」とはどういう状態をいうのかがテーマです。
Aさんと、Bさんが、討論しています。お互いに、自分の主張が「正しい」と思っているのですが、「正しい」と思う時に、いったい何を根拠に「正しい」と思うのでしょうか。
ここで「正しさ」について考える際に、以下の二つの場合があることを覚えておきたいと思います。
A 事実と合致していること
B 倫理的・道徳的に正しいこと
Aの場合、彼は昨日3時間目の授業で居眠りをしていた。ということが「事実その通り」であれば、この情報が「正しい」ということができると思います。難しい例では、裁判の判決で、ある法律の条文(その解釈や過去の判例という事実)に合致していることで「正しい」と判断することがあります。
これらは全てA(事実と合致していること)による「正しさ」で、この時に、その「事実(「居眠り」や「ある条文の解釈」)」が「人間として正しいかどうか」ということについて、判断するものでありません。ここで判断しているのは、あくまでも「事実と合致しているかどうか」ということです。
Bの倫理的、道徳的に正しいかどうかという「正しさ」が、この記事で問題とする「正しさ」になります。「倫理的、道徳的に正しい」ということは、どういうことか、ということです。
私は、回りくどいのは嫌いなので、結論から書きますが、「正しい」ということは、その「本性・本質と合致している」という状態のことを言います。
例えば、ペットボトルを例にします。ペットボトルをボーリングのピンにして遊ぶことは、別に悪くはないですが、ペットボトル本来の使い方(本質、本性)には合っていないですよね。だから、ペットボトルにとって、ボーリングのピンになることは、「正しい」ことではないのです。ここで、ペットボトルの「本性・本質」を「液体を入れて飲む道具」ということにすると、「液体と入れて飲む」という使い方をしたときに、初めて、ペットボトルにとって「正しい」使い方ということができるのです。
つまり倫理的・道徳的に「正しい」という 基準は、そのもの・人の「本質・本性」に合致していること、ということができます。となると、そのもの・人にとって「正しい」ということができるためには、そのもの・人の「本性・本質」が先に決まっていなければ、人間にとっての「正しさ」が生まれない、「正しさ」を証明できないということなのです。
「本性」がそのものの「正しさ」を決める。この「本性」と「正しさ」の間の関係は、アリストテレスが「正」と「正義」が異なるといったとこから来ています。
「正」 =「そのものの本質」
「正義」=「本質に基づく正しさ」
自然法の哲学にとって重要なことは「正」と「正義」が異なること、ここから自然法(法学)では「法」と「法律」を分けて考えるようになりました。「法」がそのものの「本質」であり、「法律」は「本質に基づくルール・規範」ということになります。
ここで気づいたかもしれませんが、法学にとって大切なことは、物事の本質である「法」が決まらなければ、「法律」は生まれない、ということなのです。この点は、今の法学ではほぼ忘れられていることなのですが、私は法学についてはこの点にこだわっています。
「法律」の「正しさ」というのは、人間の本性である「法=人間とは〇〇だ」が決まっていなければ、生まれないはずなのです。では、今日の法律とはどのような仕組みで生まれているのでしょうか。
一般的には、国会において、憲法を基にして法律が生まれています。憲法の基になっているものは、いろいろありますが、「基本的人権」という考え方が基になっていることが多いです。そうすると、私は「人権」の正しさはどうやってきまっているのだろうか?と考えて、人権についていろいろ調べてみました。すると、「人権」にもやはり、「法=人間とは〇〇だ」というのが根底に含まれているということが分かりましたので、次に「人権」について書きます。
熊本大学法学部教授の山田秀(やまだひでし)さんの本です。私が自然法について学ぶときにとても参考になった本です。
94頁から、「正」と「正義」の違いについて、アリストテレスなどを参考に書かれています。その部分を引用してみます。
「正(dikaion)と正義(dikaiosyne)とは、アリストテレスの場合、かなりはっきした区別があるようである。前者は客観的な社会的関係そのもののあり方にかかわっているのに対して、後者はソクラテス=プラトン以来、主題化されてきたところの、人間の主体的な卓越性(徳)を主として意味していた。これら両者は盾の表と裏のように切り離しえないが、事柄の性質としては、一応区別されなければならない。」
山田秀先生の本の引用ですが、上記の「人間の卓越性(徳)」などは、私も明確に何を指しているのか分からない面もあります・・・。このように「学術書」を丹念に読み込んで理解していく作業は、かなり忍耐力がいる作業です。
私は仕事がら、こうした学術書を読み込むのに慣れていますし、割と好きなところもあります。ですが、なかなか一般の人たちが気軽に読めるような内容ではないです。私はこうした学術的な情報を、分かりやすく一般の人たちに知っていただき、学問や哲学の意味について感じてもらえればと思って、コツコツとブログを書いていきたいと思っています。
今回も最後まで見ていただきありがとうございました。「読者」になってくだされば、私もやる気が出てきますので、どうぞよろしくお願いいたします!
【過去記事の紹介】
「人間とは〇〇だ」という哲学から、学問の全てが始まって、全ての結論がまた「〇〇」に返っていく。
ここが哲学のポイント↓