新時代学問のススメ

新時代学問のススメ、新しい時代の教養、哲学を学んで、日々をエンジョイしましょう。

人権とは「各自に必要なものを分配する原理」です(その1)

 

 

前回、「正しい」とは「本性に適合していること」なので、何が正しいかを決めるためにはそのモノの「本性」を先に決めなければ、そのモノの「正しさ」が決められないという原理を説明しました。これは、「正しさ」の原理です。「正しさ」とは、そのモノの「本性」が先に決まっていて、その本性に適合している時に、初めて「正しい」ということができるということです。

 

 

new-era-knowledge.hateblo.jp

 

 

さて、人権についての話です。例えば、裁判の判決や、法律の解釈などで、どういうときに「正しい解釈」であると証明する時に、人権との関係から「正しさ」を判断することが多いと思います。では、「正しさ」の基準になっている「人権」とは何か、について考えてみたいと思います。

 

人権というのは、人間の権利ですから、ここで考えることは「権利」とは何かということになります。権利が何かが分かれば、人権もスッキリと分かるようになります。

 

法が権利の範囲と内容を決めている

権利とは、国語辞典によれば「法によって守られた、利益を受け取る力」ということになります。法でその受け取る利益の範囲や内容が決まります。法で決まっていなければ、権利ということはできません。それは、単に、自分の利益の要求ということになります。法で範囲が決まって初めて、私の権利として受け取ることができるようになります。

 

法によって、権利の範囲と内容が決まっているということは、法が権利の範囲と内容を示している、つまり法と権利がほぼ、同じ内容を示している、法と権利は、同じ範囲と内容の裏と表の関係になっていることがわかります。

  

 

法と権利は同じ単語で表される

少し余談になるのですが、法と権利は、同じ範囲と内容の裏と表の関係にあるのですが、昔から学問上でも法と権利は同じものと考えられてきました。

 

法と権利はもともと同じ単語で表されてきました。ラテン語の法と権利は「ユスjus」、フランス語の法と権利は「ドロワdroit」、ドイツ語の法と権利は「レヒトrecht」のように、多くの言語で同じ単語で表されてきました。

 

なぜか、英語だけが「法law」と「権利right」を、明確に別の単語に分けています。「法」と「権利」を分けたこと、このことから、英語圏において人権の理解が、伝統的な自然法(=自然権)思想から変化し、独自の権利論を発展させていった、と指摘する説(九州大学法学部の水波朗など)があります。

 

 

 

人権とは「各自に必要なものを分配する原理」です。

 

さて、本題に入ります。

 

ここで何が言いたいかというと、ズバリ人権とは何かということです。

 

人権(権利)とは「各自に必要なものを分配する原理」である、ということです。

 

この主張の裏には、通常は「自由こそが人権である」と考えられていることに対する反対意見を示す意図があります。 

 

 

f:id:new-era-knowledge:20200312211251j:plain

図1 法と権利

 

 図を見てもらえばわかるように、権利の範囲と内容は、法が決めていることがわかります。法の規定がなければ、権利の範囲と内容が決まらないことが分かります。法と権利の二つの面からみると、権利とは以下のように2点から説明ができます。

 

 

1 法によって、人々に「各自のモノ」が分配されている。 人権の第一原理(法)

 

2 人々は、法によって分配された「各人のモノ」を権利として受け取っている。 人権の第二原理(権利)

 

このように、人権とは、法によって「各自に分配される」ことと、「分配されたモノを受け取る、自分のモノとする」という二つの側面があり、この二つのことは、裏表で人権という原理を構成しています。

 

そして、人権の原理にとって優先されるべきことは「法によって各自に必要なものが分配される」という第一原理であり、権利の範囲と内容を決めているのは「法」であるということです。つまり「法」とは何か、この点を把握しない限り、権利の内容と範囲を把握することができないことが分かるのです。

 

繰り返しになりますが、人権の概念を構成する二つの原理は、まず、各自に何をどのように分配するかを客観的に決めているの「第一原理(法)」があり、さらに、「分配されたものを権利として受け取る」という主観的行為としての「第二原理(権利)」があります。これら両者の原理が「人権」の概念を構成している客観・主観の、法と権利の、表裏の関係を示しています。

 

自由こそが人権だという考え方

 

ここで何が言いたいかといいますと、一般的に、人権というのは「自由」「自由権」のことだと考えられているのですが、人権を「自由」だとする議論は、人権の説明としては不十分だということが言いたいのです。

 

英米圏では「自由の女神」のように、「自由こそが人権」であって「人権=自由」という構図があるのですが、私の意見では、自由だけが権利であると説明するのは難しいと思っています。

 

「自由」というのは「自分のモノ」を自分の思いのままに扱い、他人に触れさせないということです。自分の命、思想、信仰、良心、表現、財産などが「自分のモノ」で、これらの「自分のモノ」に対して、誰かが干渉することを「自由の侵害」であり「人権侵害」だと主張します。ですから、自由を守るための自由権というのは、他人に、自分のモノに触れさせないということでもあります。

 

例えば、自分の命や思想、表現に干渉して、それを侵害されることがあれば、それはその時点で、そうした干渉・侵害は違法行為になることがあります。

 

ですが、自由を強く主張する人たちが忘れていることがあります。それは、自由という「自分のモノ」を、まず「各自に分配するという原理」のことを忘れているということです。人々が自分の人生や幸福にとって最低限必要なものを、法によって分配され、それを人権として受け取ります。その受け取ったものは「自由」であり「自分のモノ」として守ることは大切です。ですが、その前に、人々が必要なものを分配されるという第一の原理について、もっとよく考えなければなりません。

 

今の人権の原理に欠けていると考える大きな問題は、法によって各自に分配するとい原理であるはずの人権が、きちんと理解されていないということにあります。この原因は、「法とは何か」ということが分かっていないことにあると思います。

 

  • ここでは、「法」をわざと「法律」とは書かないで、この二つを区別しています。この区別は、アリストテレスが考えた「正」と「正義」が別のモノ、ということと同じ原理になっています。

 

  • 「正」と「正義」の違いが分かると「正しさ」の原理が理解できるので、ここも大切なポイントなので、関心がある人は下記のブログ記事「「正しい」とは「本質に適合している」ということです」をじっくり読んで頂ければと思います。

 

 

new-era-knowledge.hateblo.jp

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 【参考文献】

 

 

権利論 (1977年)

権利論 (1977年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「正しい」とは「本質に適合している」という意味です。

親愛なる読者の皆様。ブログを訪問くださって、ありがとうございます。しばらくは哲学的な内容になります。

 

哲学が分かると、モノの見方も変わってきます。政治や経済に対する見方、人間の生活全般の価値観も変わってくると思います。

 

人は、自分の価値観で世界を判断しています。自分が「正しい」と思う価値観で、全てを判断しています。ですから、「正しい」と考えているものが変わったとき、あなたにとって世界のすべてが変わって見えるはずです。

 

哲学が大切なのは、単に学問的な興味からだけではなく、現実の世界に対する認識が、自分の哲学に影響をうけているからでもあります。

 

さて、今回は「正しい」とはどういう状態をいうのかがテーマです。

 

Aさんと、Bさんが、討論しています。お互いに、自分の主張が「正しい」と思っているのですが、「正しい」と思う時に、いったい何を根拠に「正しい」と思うのでしょうか。

 

ここで「正しさ」について考える際に、以下の二つの場合があることを覚えておきたいと思います。

 

A 事実と合致していること

B 倫理的・道徳的に正しいこと

 

Aの場合、彼は昨日3時間目の授業で居眠りをしていた。ということが「事実その通り」であれば、この情報が「正しい」ということができると思います。難しい例では、裁判の判決で、ある法律の条文(その解釈や過去の判例という事実)に合致していることで「正しい」と判断することがあります。

 

これらは全てA(事実と合致していること)による「正しさ」で、この時に、その「事実(「居眠り」や「ある条文の解釈」)」が「人間として正しいかどうか」ということについて、判断するものでありません。ここで判断しているのは、あくまでも「事実と合致しているかどうか」ということです。

 

Bの倫理的、道徳的に正しいかどうかという「正しさ」が、この記事で問題とする「正しさ」になります。「倫理的、道徳的に正しい」ということは、どういうことか、ということです。

 

私は、回りくどいのは嫌いなので、結論から書きますが、「正しい」ということは、その「本性・本質と合致している」という状態のことを言います。

 

例えば、ペットボトルを例にします。ペットボトルをボーリングのピンにして遊ぶことは、別に悪くはないですが、ペットボトル本来の使い方(本質、本性)には合っていないですよね。だから、ペットボトルにとって、ボーリングのピンになることは、「正しい」ことではないのです。ここで、ペットボトルの「本性・本質」を「液体を入れて飲む道具」ということにすると、「液体と入れて飲む」という使い方をしたときに、初めて、ペットボトルにとって「正しい」使い方ということができるのです

 

つまり倫理的・道徳的に「正しい」という 基準は、そのもの・人の「本質・本性」に合致していること、ということができます。となると、そのもの・人にとって「正しい」ということができるためには、そのもの・人の「本性・本質」が先に決まっていなければ、人間にとっての「正しさ」が生まれない、「正しさ」を証明できないということなのです。

 

「本性」がそのものの「正しさ」を決める。この「本性」と「正しさ」の間の関係は、アリストテレスが「正」と「正義」が異なるといったとこから来ています。

 

「正」 =「そのものの本質」 

「正義」=「本質に基づく正しさ」 

 

 

  

f:id:new-era-knowledge:20200222231152j:plain

「正」と「正義」は違うものらしい?!

 

自然法の哲学にとって重要なことは「正」と「正義」が異なること、ここから自然法(法学)では「法」と「法律」を分けて考えるようになりました。「法」がそのものの「本質」であり、「法律」は「本質に基づくルール・規範」ということになります。

 

ここで気づいたかもしれませんが、法学にとって大切なことは、物事の本質である「法」が決まらなければ、「法律」は生まれない、ということなのです。この点は、今の法学ではほぼ忘れられていることなのですが、私は法学についてはこの点にこだわっています。

 

「法律」の「正しさ」というのは、人間の本性である「法=人間とは〇〇だ」が決まっていなければ、生まれないはずなのです。では、今日の法律とはどのような仕組みで生まれているのでしょうか。

 

一般的には、国会において、憲法を基にして法律が生まれています。憲法の基になっているものは、いろいろありますが、「基本的人権」という考え方が基になっていることが多いです。そうすると、私は「人権」の正しさはどうやってきまっているのだろうか?と考えて、人権についていろいろ調べてみました。すると、「人権」にもやはり、「法=人間とは〇〇だ」というのが根底に含まれているということが分かりましたので、次に「人権」について書きます。

  

ヨハネス・メスナーの自然法思想 (熊本大学法学会叢書)

ヨハネス・メスナーの自然法思想 (熊本大学法学会叢書)

  • 作者:山田 秀
  • 出版社/メーカー: 成文堂
  • 発売日: 2014/04/01
  • メディア: 単行本
 

 

熊本大学法学部教授の山田秀(やまだひでし)さんの本です。私が自然法について学ぶときにとても参考になった本です。

 94頁から、「正」と「正義」の違いについて、アリストテレスなどを参考に書かれています。その部分を引用してみます。

 

「正(dikaion)と正義(dikaiosyne)とは、アリストテレスの場合、かなりはっきした区別があるようである。前者は客観的な社会的関係そのもののあり方にかかわっているのに対して、後者はソクラテスプラトン以来、主題化されてきたところの、人間の主体的な卓越性(徳)を主として意味していた。これら両者は盾の表と裏のように切り離しえないが、事柄の性質としては、一応区別されなければならない。」

 

山田秀先生の本の引用ですが、上記の「人間の卓越性(徳)」などは、私も明確に何を指しているのか分からない面もあります・・・。このように「学術書」を丹念に読み込んで理解していく作業は、かなり忍耐力がいる作業です。

 

私は仕事がら、こうした学術書を読み込むのに慣れていますし、割と好きなところもあります。ですが、なかなか一般の人たちが気軽に読めるような内容ではないです。私はこうした学術的な情報を、分かりやすく一般の人たちに知っていただき、学問や哲学の意味について感じてもらえればと思って、コツコツとブログを書いていきたいと思っています。

 

今回も最後まで見ていただきありがとうございました。「読者」になってくだされば、私もやる気が出てきますので、どうぞよろしくお願いいたします!

 

 

 

 

 【過去記事の紹介】

「人間とは〇〇だ」という哲学から、学問の全てが始まって、全ての結論がまた「〇〇」に返っていく。
ここが哲学のポイント↓ 

 

new-era-knowledge.hateblo.jp

 

 

 

 

 

これだけで分かる!哲学入門 

 

哲学や思想って、何から読んだらいいのか分からない分野だと思います。とにかく歴史が長いというか、学問の分野としては最も古い歴史をもつ分野になります。ですが、この哲学を把握すれば、学問の全体像がハッキリと見えてくるようになります。その哲学をズバリ「ここだけで分かる!」という視点で解説したいと思います。

 

私の書き方として、まず結論から書きます。答えは「人間とは〇〇だ」という「人間に関する判断の基準となる大前提を確定すること」にあります。「人間とは〇〇だ」

なんて、学問で証明できるわけない、と考えるかもしれませんし、実際に、多くの学者は私の指摘に「馬鹿げている」と反論するかもしれません。ですが「人間に関する大前提と決めなければ学問は不可能」なのです。 

 

f:id:new-era-knowledge:20200220221427j:plain

 

古代ギリシャの哲学者、アリストテレス(前384-前322)が、物事を論じる方法論として考えた論理学の中でも最も重要な理論である「三段論法(大前提、小前提、結論の組み立て)」というのがあります。この三段論法を簡単に説明すると、「対象X」に関する大前提が例えば「〇〇」であれば、「対象X」に関するほぼ全ての結論が「〇〇」になる、ということです。ココが分かれば、哲学の大部分が分かると思います。

 

つまりその対象の「大前提が全ての結論を左右する」のです。それが人間について研究であれば、実際ほとんどの研究が人間に関するものですが、人間に関する大前提が「〇〇」であれば、それら研究の結論は全て「〇〇」になる、はずです。というか、「〇〇」が結論なので、後は、どのような制度、政策を組み合わせれば、人間にとって本来ふさわしい「〇〇」の状態が実現するのか、という問題だけが残るのです。人間の理性とはどういう存在なのか、人間の実存は何か、本質は何かと難しく議論を重ねているのも、「人間とは〇〇だ」を決めるために努力してきたものです。

 

ここ数百年(500年くらい??)の学問の歴史で、人間に関する大前提は、何だったでしょうか?つまり、「人間とは〇〇である」という大前提の「〇〇」の部分が、学問を決めてきたのですが、この「〇〇」に入る言葉は何でしょうか。ちょっと恐ろしいことですが、ここに入る言葉は「戦争」だったのです・・・・。だから、近現代のあらゆる学問の結論が実は「戦争(生存競争、自由競争、適者生存)」に向かうようです。

 

教育学ではどうでしょうか。教育の目的は「人格の完成」「個人の価値の尊重」と言われますが、「人格」とは何かの説明はあまりなされていないようですが、「人格」が権利・義務の主体となることだとすれば、この目的は、ほぼ法学的な意味での個人主義的人権の尊重に近づくように思います。人権も実は個人主義が優先で、他者への配慮(生存権)はかなり制約された第二義的な権利になっています。

 

ここで大切なのは、教育学であっても、「他者を助けなさい・助け合いなさい」という教育は、道徳の授業では多少含まれるでしょうが、人間本来の目的としては想定されていない、ということです。

 

法学では「自由権(実は、物的・精神的私的財産の所有権のことで、他者と共有(助けあう)はしない、財産を自分で処分する自由のこと」、経済学では「自己の利益の最大化」を「最適な分配」の基準とするなど、社会科学の柱である法学と経済学が「自己の生存」を最優先し、他者への分配は実は権利・義務としないなど、生存競争の原理が貫かれていることが分かるのです・・・(また追って、説明していきます)

  

では、一体だれが「人間とは戦争だ」ということを決めたのでしょか。どうも最初の人物は、社会契約説(簡単にいうと「国家を生み出す」説)の最初にくる人、『リバイアサン』という本を書いた、トマス・ホッブズ(1588-1679)だと、私は思います。ですから、私は、トマスホッブズが「諸悪の根源」をつくった一人だと考えています。『リバイアサン』を書いたのは1651年ですから、ホッブズ以降の学問の世界には「人間=戦争」という遺伝子が組み込まれていったのだと考えています。

 

f:id:new-era-knowledge:20200221001039j:plain

トマスホッブズリバイアサン(一)』岩波書店、1954年、210頁。

上のページの6行目に「人間の本性」という言葉がありますね。実は、この「本性」という言葉が、学問にとって、特に哲学分野にとって鍵になります。この「本性」というのは、上の三段論法でいうことろの、人間に関する「大前提」になる、「人間とは〇〇だ」の「〇〇」に入る言葉を表します。

 

自然法とか自然法論という言葉を、昔、歴史の教科書か何かで見たことがあるだろうと思うのですが、自然法とは英語で「ナチュラル・ローNatural Law」と書いて、「自然」と「ナチュラル」、名詞形では「ネイチャーNature」と書きます。回りくどくなりましたが、「本性」も英語では「 Nature」なのです。どういうことかといいますと、人間の本性「ネイチャー」について論じること、この学問のことを「自然法自然法論」と呼んで、なんだか、法学の元祖のように考えているのです。どこが法学なの?と思うかもしれませんが、「法」と「法律」は学問の上では別々の概念で、もともと法学の「法」とは、自然法では「人間の本性」のことで、「正しさ(法律)の基準」が「法」なのです(これもまた説明します)。

 

ですから「自然法論」という時の「自然」とは「ネイチャー・Nature = 本性」でして、つまり自然法論とは「人間の本性を論じる」という学問なのです。だから、学問にとって自然法論は、実は最も重要な学問領域なのが分かります。

 

こんなに大事な自然法論ですが、今の学問の世界ではほとんど、まったく、無視されているような分野になっているから不思議です、ホントに不思議。今私が思うのは、おそらくあまりにも学問にとって重要で、全ての土台になる部分であるため、学問の歴史の中で、意図的に無視されてきたように思います。

 

しかし、トマス・ホッブズの時代は「自然法全盛期」です。ホッブズに続く、ロック、ルソー、カントなどの超有名な哲学者の時代は、まだまだ「自然法の全盛期」で、「人間の本性とは・・・」「人間とは・・・・だ」ということを、みんな自分の学問の最初の所、本の最初の部分に必ず入れていたのです。

 

この頃の学問では、哲学や思想の分野と、法学や経済学の分野が、今のように分かれていなかったのです。今では、哲学は「人間科学・人文科学」で「人間学部、文学部」の範囲に入り、法学や経済学は「社会科学」で「法学部、経済学部」などに分けられていいます。

 

自然法論と聞いて、誰か思い浮かぶ人がいるでしょうか?実は、同じトマスでも、ホッブズよりもずっと300年くらい先輩の「トマス・アクイナス(1225-1273)」が、一般的には「自然法」の産みの親と言われていますが、このトマスアクイナスが最初に考えた自然法論では、「人間の本性」は「戦争」とは言っていません。

 

f:id:new-era-knowledge:20200309152410j:plain

トマスアクイナス『神学大全 第1巻』創文社昭和35年、125頁。

 

 

元々、伝統的なトマス・アクイナスは人間の本性を「善(補完性原理/助け合い)」であると定義し、そこからトマス主義の学者の間では、人間社会のモデルは「家族」であり、そこでは人と人とは愛し合い、助け合っているという姿をひな型として学問を組み立てていました。

 

「家族」をモデルに考えれば「人間の本性は、補完性(助け合い)」であり、つまり、人間は「助け合う」ものだ、ということを、「学問の大前提」に置いていたのです。

 

私はこの点をもって、トマス・アクイナスとトマス主義の哲学を多くの人に知っていただきたい。この哲学を元に学問を再度構築していかなければならないと考えています。

 

もし、ロックやルソーたち、つまり「近代国家」を生み出す「社会契約説」の論者が、人間本性=補完性(助け合い)として、学問を進めていたら、恐らく、今のような世界にはなっていないと思うのです。今のように学問に対して、人類の将来に対して、希望を失うことはなかっただろうと思うのです。 

 

「新時代学問」が目指すものは「人間の本性は愛である」という哲学を打ち立て、この上に新しい学問を体系づけることだと考えています。

 

「人間の本性が愛」である場合、全ての学問の目指すものが「愛」に向かうのです。愛を実現する法学、愛を実現する経済学、愛を実現する教育学、愛を実現する芸術、全ての学問が愛を目指すようになるはずです。なぜなら、人間の本性に合致することが真に「正しい行為」だと言えるからなのです。人間の本性は、人間にとっての「正しさ」の基準になるものなのです。こうした論理が自然法の論理ですが、今後、詳しく説明していきます。

 

少し追加で説明しますと、「人間とは〇〇だ」という場合の「人間」についての理解の仕方が二つあり、「精神」と「肉体」です。ざっくりな説明になりますが、精神的な面から研究を進めたのが観念論(カントなどが代表)で、肉体面からの研究を進めたのが経験論(ロック、JSミルなど)の流れになります。「精神」か「肉体」かという二者択一が大きな二つの別れになり、その中で、どうも後者(肉体的経験論)が主流になり、快楽主義や功利主義が主流になっていくようです。しかし、人間をして「精神」か「肉体」かという二者択一の議論そのものが「ナンセンス」なのであり、精神も肉体も両方持ち合わせているのが人間であるべきなのです。こうしたバランスのとれた視点はすでに自然法論の中に備わっていたので、特に精神と肉体を分けて議論はしていないのです。そして、自然法論の幅広さ・豊かさこそが本来の学問の土台にあったということが大切なポイントです。

 

ホッブズはその理論(人間本性=戦争論)を組み立てる際に、イギリス人らしく、経験論(肉体主義)をとりました。そこで、人間の本性について、生存競争を生き残るための闘争こそが本質であるように論理を組み立てたのでした。

 

_________________________________

 

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。どうでしたでしょうか。

 

普段の仕事は研究者で、大学で授業している者なので、どうしても頭の中がカタイことばかり考えてまして、よくわからない所とか、もっと説明してほしいとことか、ご意見をいただければホントにうれしいです。あとブログの「読者」になっていただければブログを書いていくやる気が出ます。

 

まだ、内容とかコンセプトがまだハッキリ決まりませんが、皆さんのご意見と反応を見ながら、改善してまいりますので、どうかお付き合いください!

 

 

 

【新時代学問のおすすめ本!】

 

日本人のための戦略的思考入門――日米同盟を超えて(祥伝社新書210)

日本人のための戦略的思考入門――日米同盟を超えて(祥伝社新書210)

 

 

 

孫崎享さん(元外務省国際情報局長、防衛大学校人文社会科学群学群長)の本をたくさん読みましたが、上記『日本人のための戦略的思考入門』は、日本人が教養をつけるために必読の書ではないかと思うくらいに感激しました。

最近でこそ「戦略」をタイトルに入れた本が出回っていますが、その先駆けとなったのが本書だろうと思います。オススメです!!

 

紛争を解決する戦略論 → 戦略はもともと軍事から出発し、軍事に限らず現在は企業において経営戦略として最も重視されている。軍事戦略と、経営戦略の中心にアメリカのロバート・マクナマラ(1916‐2009)がいた。フォードの社長、ハーバード大学ビジネススクール助教授国防長官も歴任したマクナマラが、戦略に関して分析的に考えた最初の人だろうと言われている。孫崎氏は、戦略論について、プロイセンのクラウゼビッツ、イギリスのリデル・ハート、そしてノーベル経済学賞を受賞したトーマス・シェリングという多彩な学者の原著を引用している。

 

アメリカの経済学者トーマス・シェリング1921年~)は、紛争の戦略や「ゲームの理論」によって2005年にノーベル経済学賞(授賞理由:ゲームの理論的分析を通して、紛争と協調への理解を深めた)を受賞た。シェリングの戦略は、敵対相手との間にわずかでも共通利益もしくは共通損害があれば、その一点から、互いに紛争を解決する手口をつかむことができるという。紛争を解決する戦略が、実は、対立する相手との間に「紛争がない状態こそが自分の利益になる」ということを見出すことである。

 

上記はほんの一例で、本書では、世界でも第一級の学術文献を直接引用しつつ、多様な視点から世界情勢の分析を行う視点を養ってくれるたいへん優れた本である。